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JTJ物語 (3)


「これが、めざす神学校だ!」その時、1989年4月、ぼくの心に燃え上がっていた4つ。
 1) 実践的であること
  新しい神学校を始めるにあたり、ぼくが考えた第一のことは、特徴として実践的であること。宣教神学校/ミッション・セミナリー という名前にしよう、ということでした。
  神学校はたくさんありました。その授業内容を見ると、学者を養成する学校かと思ってしまうほど、特定の分野は専門的で、深い内容でした。これは、確かに日本のキリスト教界の神学レベルを上げることに貢献したでしょう。
  「福音派は諸雑派と称され、バカにされている。なめられてはいけない。学問的レベルを上げよ。」
  「欧米の神学校に追いつけ。」「聖書言語で釈義できる語学力を。」
  こうして、学問的訓練が重視され、霊的なもの、実践的なものが軽視されてきた事実は否めません。しかも、健康な状態で入学して、卒業時には、身体がガタガタで、体力がすっかり低下しているように、量質ともに厳しい学びというのは、どうかと思います。
  他方、カリキュラムの内容がすっかり偏っていて、聖書の全体、神学体系の全体を知らせず、実践の一部だけを強調し、訓練して卒業させるというのも、教会の指導者の養成としては、不十分であり、不安です。聖書の66書全体を学び、神学体系の全体に一応は、目を通せるという、実践的な伝道者を養成する神学校。知識の量ではなく、知識の質にこそ目を置いた実践的な神学校を。

 2) 新しい皮袋の創造「福音総合理解の眼」を養う。
  5人が洗礼を受けて、そのうち3〜4人が、やがて教会をやめていくという、礼拝出席者人口0.2%という私たち日本の教会の実情。その原因はどこにあるのでしょう。
それは、私たち日本の教会が、欧米から律法主義的な信仰生活の倫理や教理を、その文化とともに、無批判に、無反省に取り込んだ結果に違いない、とぼくは見ていました。
優等生主義、教条主義、修養主義、神秘体験主義、ご利益的福音観、教職と信徒の間にある身分制度的ともいえる階層や権威主義、日曜安息日などに見られる聖俗の二元論など、福音の自由と喜びを圧殺する律法主義的皮袋に代えて、新しい皮袋を創造できる指導者を養成する神学校が必要です。 日曜日が教会時代の「安息日」であると教えられると、それは、もはや侵すべからざる、神聖な神の制度と勘違いをして、その変革などもってのほか、と考えてしまいます。ことごとさようで、こうして、イエスさまがご覧になれば、「熱心はいいけれども、これでは新しい律法主義的悲劇だ。」と言われるに違いないような状況が生まれていると、ほくは思いました。制度や伝統を変革するためには、キリストの福音を総合的に理解できる『眼』/[福音総合理解の眼]を養う神学校でなければならない、と考えました。

 3) 経済的自立による、学の独立
「特定の人物や、団体に、金銭的援助を要請しない。諸教会に献金を要請しない。」
自発的に申し出て下さる献金は、喜んで頂いても、学校からは献金を求めないこと。 それは、律法主義に対する改革を提言していくためにこそ、学校内部のどこからも反対や、圧力や、支配を受けないで、わが神学校独自の「学の独立」を断固、守る必要があると痛感していたからです。   主ご自身が神学校のオーナーであられることを証するためにも、経済的に自立すること。
  通信制によって、全国から多数の学生を受け入れることができれば、これは可能だ、可能にしなければならないという、燃えるような思いがありました。
  それは、例のテレビ伝道に向けての準備段階で、いくつもの会社の営業部長・宣伝部長を訪ねてまわった時、バブルまっただ中、彼らの多くは尊大で、伝道者であるぼくを、鼻先であしらうようでした。伝道者として、受けた屈辱は忘れがたいものがあります。したがって、経済上の独立への決心は、ぼくの中で、強固でした。「福音の真理をまっすぐに解き明かす預言者・伝道者は、金銭物品のため、頭を下げない。媚びない。金品にはかかわりを持たない!」

 4) 偏らない超教派であること。(続) 


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