JTJ物語

 1989年4月25日火曜日の早朝。東京は新宿の、とあるビジネスホテル。
前夜、ある神学校の講義の最終授業を済ませ泊まっていたホテルで目を覚ましたぼくは、カセットテープで学ぶ通信部の学生たちのレポートに目を通していました。それは『使徒の働き』の講義の感想をつづるレポートでした。
 7、8人の学生のものを読んでみて、深く感銘を受けたというか、認識を新しくしたのは、通信制による学習効果の高いことでした。教室の学生たちに勝るとも劣らず、講義の重要なポイントを的確に押さえて対応していることでした。そのレポートも手応え十分でした。

 「盆と正月、年2回だけ、宗教的になる日本人ですから、クリスチャンになったばかりの人たち全員に、毎週の日曜日の朝の礼拝を強制したり、期待するというのは、ちょっと無理があると思います。柔軟な対応が必要なのではないでしょうか。」
 15,16章の「割礼と4項目」と「逆用の自由」のテーマに答えて書いてきたレポートを読みつつ、僕は感極まってしまいました。その内容もさることながら、通信学習の効果にも感激しました。その次の瞬間でした。
 「ビデオテープの通信だ!!!」「ビデオテープの通信だ!!!」「ビデオテープによる通信制の神学校だ!!!」
 全身を聖なる激情と衝撃が貫きました。「これだ!!!」「これだ!!!」「これだ!!!」「クリスチャン人口1%、礼拝出席人口0.2%という不動の壁を打ち破るには、これだ!!!」  目の前の鏡に映る自分の顔を見て、別人かと驚きました。興奮で紫色に変色していて、鳥肌を超えて、表面がデコボコでした。
 「これなら、全国から学生を募集できる。全国の学生に教育できる。経済的にも必ず自立できる。よし、これで行こう。」
 たちまちのうちに、基本的な構想が頭の中を駆けめぐりました。  家に帰り、家内を捕まえてしゃべりまくりました。
 「だれでも・いつでも・どこででも」 - ワープロに向かって、次から次へと湧き上がる神学校としての理念や原理原則を打ちまくりました。「待てない。1年で開校だ。」
 ぼくが投げかけた日曜礼拝時間の問題提起「命のように重要な礼拝は、子どものための教会学校を含めて、日曜日の9時から12時だけに限定しないで、日と時間は柔軟に対応することが多様に生きる信徒たちのために必要だ」これは、多くの人たちに歓迎され、支持されましたが、熱心党や伝統派からは「妥協的・異端的だ」とたたかれて、野に伏すこと6年。ここに至って、ぱっとかなたが輝いて、長い屈辱の期間がひとまず終わるぞ、という感慨でした。

JTJ宣教神学校が誕生してきた背景として、3つの要因がありました。

 一つは、僕が35歳から、ライフワークとして取り組んできた巡回伝道者としての働きです。1%と0.2%の壁を破るため、全国の諸教会の伝道に協力させていただいて、クリスチャンが増えていくこと、教会の刷新とか成長に少しでも協力すること。単純に素朴にそのように願い、心を熱くしました。そうして10数年、夢中で取り組み、思いました。「このペースであと30年、巡回を続けても、ぼく個人としては多忙なスケジュールで充実して戦っても、日本の教会に何の変化もないだろう。個人的巡回だけでは解決にならない。何をすべきか?」
 それは、ある種の無力感であり、あせりでした。

 二つ目は全国青年宣教大会の限界でした。ぼくが36歳の時のことでした。
 「青年たちに宣教のヴィションと宣教の方策を提供して、献身の生涯へと引き上げることこそ、日本のキリスト教会を変革する力だ。  青年にヴィジョンを!青年に備えを!青年に献身を!」
 そして30代の牧師仲間たちに呼びかけ、偏らない超教派でこの大会を開催しました。やがて、千人、千五百人が集まるようになりました。そして北海道、西日本、四国、環日本海にも大会が広がり、他の教団・教派でも独自に同じような大会を始め、それは一種の青年宣教大会運動のように展開していきました。そして10年、また考えました。
 「成功した。充実している。満足度も高い。しかし、1年に1回、2泊3日。これだけでは、焼け石に水。1%と0.2%の解決にはつながらない。何をすべきか?」
 三つ目は、テレビ伝道の挫折でした。構想としては、まず標準語の番組を作る。それから、全国各地で説教者をたてて、説教の部分を各地の方言に差し替え、各地方局から放映する。教会には献金を依頼しないで、番組に企業のCMをを入れて自立採算とする。タイトルは「ほっと、ホームタイム」サンプルのビデオもでき上がり、実現手前までいったのですが、突如、スポンサーの中心的な会社が傾いたり、賛同者に迷いが出たりで、結局は、頓挫に。ところが、賛同者に配るために作ったサンプルビデオが、挫折感の中で、ひらめきになりました。
 「ビデオによる、通信制の神学校ができる!!!」

 当時、40代のちょうど真ん中あたりであったぼくは、巡回伝道者として残る30年、1%と0.2%に挑戦して、何をすべきか、大いに迷い、失望もし、悩みました。

 こうして、1989年、4月22日。主イエス・キリストご自身が、新宿のホテルの朝の衝撃的な瞬間を備えてくださったのです。  「●ビデオによる通信のある神学校を。●だれでも、いつでも、どこででも学べる神学校を。●召命がなくても、勉強したい人は誰でも学べる神学校を。●仕事をやめないで、家族から離れないで、●居ながらにして学べる神学校を。●毎年1,000人の卒業生を送り出せる神学校を。」
 「社会で活躍する粘り強い優れた信徒たちに、人生の三分の一は、思いきり教会と宣教に献身できる道を開くのだ。学生が納める受講料で経済的に自立する神学校は、ビデオによる通信でなら可能だ!これなら1%と0.2%に挑戦できる!」
 その朝、主イエスさまが、ぼくの肩に手を置いて言われたのです。
 「岸君。これで行きなさい。この働きを、君に任せます。たのんだぞ。」と。

「これが、めざす神学校だ!」その時、1989年4月、ぼくの心に燃え上がっていた4つ。

1) 実践的であること
 新しい神学校を始めるにあたり、ぼくが考えた第一のことは、特徴として実践的であること。
宣教神学校/ミッション・セミナリー という名前にしよう、ということでした。
 神学校はたくさんありました。その授業内容を見ると、学者を養成する学校かと思ってしまうほど、特定の分野は専門的で、深い内容でした。これは、確かに日本のキリスト教界の神学レベルを上げることに貢献したでしょう。
  「福音派は諸雑派と称され、バカにされている。なめられてはいけない。学問的レベルを上げよ。」
  「欧米の神学校に追いつけ。」「聖書言語で釈義できる語学力を。」
  こうして、学問的訓練が重視され、霊的なもの、実践的なものが軽視されてきた事実は否めません。しかも、健康な状態で入学して、卒業時には、身体がガタガタで、体力がすっかり低下しているように、量質ともに厳しい学びというのは、どうかと思います。
  他方、カリキュラムの内容がすっかり偏っていて、聖書の全体、神学体系の全体を知らせず、実践の一部だけを強調し、訓練して卒業させるというのも、教会の指導者の養成としては、不十分であり、不安です。聖書の66書全体を学び、神学体系の全体に一応は、目を通せるという、実践的な伝道者を養成する神学校。知識の量ではなく、知識の質にこそ目を置いた実践的な神学校を。

 2) 新しい皮袋の創造「福音総合理解の眼」を養う。
  5人が洗礼を受けて、そのうち3~4人が、やがて教会をやめていくという、礼拝出席者人口0.2%という私たち日本の教会の実情。その原因はどこにあるのでしょう。
それは、私たち日本の教会が、欧米から律法主義的な信仰生活の倫理や教理を、その文化とともに、無批判に、無反省に取り込んだ結果に違いない、とぼくは見ていました。
優等生主義、教条主義、修養主義、神秘体験主義、ご利益的福音観、教職と信徒の間にある身分制度的ともいえる階層や権威主義、日曜安息日などに見られる聖俗の二元論など、福音の自由と喜びを圧殺する律法主義的皮袋に代えて、新しい皮袋を創造できる指導者を養成する神学校が必要です。 日曜日が教会時代の「安息日」であると教えられると、それは、もはや侵すべからざる、神聖な神の制度と勘違いをして、その変革などもってのほか、と考えてしまいます。ことごとさようで、こうして、イエスさまがご覧になれば、「熱心はいいけれども、これでは新しい律法主義的悲劇だ。」と言われるに違いないような状況が生まれていると、ほくは思いました。制度や伝統を変革するためには、キリストの福音を総合的に理解できる『眼』/[福音総合理解の眼]を養う神学校でなければならない、と考えました。

 3) 経済的自立による、学の独立
「特定の人物や、団体に、金銭的援助を要請しない。諸教会に献金を要請しない。」
自発的に申し出て下さる献金は、喜んで頂いても、学校からは献金を求めないこと。 それは、律法主義に対する改革を提言していくためにこそ、学校内部のどこからも反対や、圧力や、支配を受けないで、わが神学校独自の「学の独立」を断固、守る必要があると痛感していたからです。   主ご自身が神学校のオーナーであられることを証するためにも、経済的に自立すること。
  通信制によって、全国から多数の学生を受け入れることができれば、これは可能だ、可能にしなければならないという、燃えるような思いがありました。
  それは、例のテレビ伝道に向けての準備段階で、いくつもの会社の営業部長・宣伝部長を訪ねてまわった時、バブルまっただ中、彼らの多くは尊大で、伝道者であるぼくを、鼻先であしらうようでした。伝道者として、受けた屈辱は忘れがたいものがあります。したがって、経済上の独立への決心は、ぼくの中で、強固でした。「福音の真理をまっすぐに解き明かす預言者・伝道者は、金銭物品のため、頭を下げない。媚びない。金品にはかかわりを持たない!」

 新しい神学校を作るなら、福音派もペンテコステ・カリスマ派も、NCC系の教会合同派も、どのうような教派教団からの学生でも受け入れることができるように、神学的・教理的に偏らない神学校にしなければならない、と考えました。
全国青年宣教大会を主催してきた私たち「なかよし会」が、まさに偏らない超教派でした。したがって、参加者も右から左まで超教派でしたから、私たちは、大げさに言えば、〔日本の教会の歴史において、これはたいへん意義のあることだ〕と自負していました。
 「あなたがたの互いの間に愛があるなら、世の人たちは、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう。」(ヨハネ13:35)と主イエスさまは言われました。
  偏らない超教派の神学校。そのためには、教師の先生方を、ありとあらゆる教会・教団からお願いしなければならない。「なかよし会」とその周辺には、優れた先生たちが大勢おられました。「だいじょうぶだ!」講師陣には確信がありました。

 校長をだれに依頼するか?

1)偏らない超教派の神学校にふさわしい、超教派的要素を持つ人物。
2)新しいこの神学校に心から賛同して下さる、刷新的な、柔らかい頭脳の持ち主。
3)超教派的に、名前の知られている、実績を持つ牧師・伝道者。
4)学生たちの目標となり得る、優れた人格者。実践神学にふさわしく、学識と実戦経験の豊かな、魂への情熱にあふれた伝道者・牧師。
5)自慢せず、誇らず、愛の人で、劣等生の心もよくわかる人。
6)地球全体に学生が散在することになるので、国際的感性の持ち主であること。
7)日本人的風貌。中肉、中背で、身軽に世界を飛び回れる人。
8)「喜べ、もっと喜べ、最高に喜べ、主にあって」みたいなことを、聴衆に言わせ、その気にさせるような、単純で、素朴で、庶民的な反面も持ち合わせている人。

 こうなると、地球上に生きる64億の人間の中で、ひとり、まったくピッタリの男がいます。ハワイにいます。当たりです。決まりです。中野雄一郎先生、その人で、決定でした。これは本来ならば難航する人事でしょう。しかし、私たちの場合は、もっともイージーな人選、そして決定でした。

 こうして、その昔、ぼくが留学を終えて日本に帰国する日、とんでもない故障を秘めたシェボレーステイションワゴン、所有者であったぼくもまったく気づかず、買い手の教会と中野牧師も知る由もなく、引き渡したその日のうちに、トランスミッションが壊滅してしまうという事態が突発した後、仲に入ってすべてを丸く収めて下さった、恩人・恩師たる中野雄一郎先生に、ぼくが一方的に伝えた、別れぎわの最後の言葉、「先生、いつの日にか、日本伝道のために準備を整えて、先生を迎えに来ます。」これを13年後に、そのような形で実現することができたのでした。
 偏らない超教派からの講師陣、校長(当初は学長でなかった)、そしてぼくが神学校の最終責任を負う、逃げない、という意志を自他に表明するため、「代表」という肩書きを持つことにしました。

   開校するまでに、準備は11か月しかありませんでした。1989年5月ごろの話を今書いているわけです。
 「準備を急がなければならない。事務的な作業をどう進めるか。」
 後藤牧人牧師(町田キリスト教会)と、鈴木邦俊牧師(町田南キリスト教会)が、創立にむけての待ったなしの準備に協力して下さることになりました。経営コンサルタントの永田義一兄も助けて下さることになりました。こうして、中野先生とぼくに、3人が加わり、具体的な作業に入ったのでした。

 献金を訴えないまでも、このような新しい皮袋の神学校を創立することを、広く知ってもらうことで、入学者、支援者、協力者の輪を広げようということで、ニュースレターを出すことにしました。

 1989年5月、第10回全国青年宣教大会の最終日、宣教大会(3)の説教者であったぼくは、説教の中で、1%と0.2%の壁を打ち破るための次なる挑戦として、[新しいぶどう酒を新しい皮袋に]入れる神学校のヴィジョンを打ち上げました。「今後、10年を献げて、まったく新しいスタイルの神学校を軌道に乗せるため、命をかけて取り組む」決意を表明しました。(もう15年がたちました。)
 大会後、「なかよし会」が開かれ、この神学校は、岸個人が進めること、中野雄一郎牧師を校長に立てること、「なかよし会」が協力することで賛成を得ました。
 心踊るような課題は、神学校の名前をどうするかでした。ずばり「日本伝道者学校」とか、「預言者学校」とか、「ABC神学校」とか、さまざまなアイデアが浮かびましたが、最終的に「Jesus To Japan Mission Seminary」「JTJ宣教学院」としました。

    2つのJ。Jesus To Japan。内村鑑三の墓に刻まれた墓碑銘をも思いました。

               われは日本のため 日本は世界のため
               世界はキリストのため すべては神のため

  2つのJを愛し、これに生きた偉大な指導者、内村鑑三。

 「世界を見つめ、日本に生きる宣教!日本を愛し、日本の救いのため、欧米の神学と教会文化を必ずしも追従しないで、新しい日本の教会と宣教の皮袋を、福音総合理解によって創造することを目指す神学校教育」を掲げた私たちにとって[イエス・キリストを日本へ][福音を日本へ][Jesus To Japan][2つのJ]は、最もふさわしい名称になりました。神学的にも[Japan To Jesus]ではありません。

 さて、神学校の構想は整い、講師陣も決まり、校長も決定し、名称も決まった。ここまでは、われわれ伝道者の仕事であり、役割でした。これを現実に移すには、実務と経営の能力があるビジネスマン的人材が必要です。現実として先立つものも、即、必要になります。教室をどうする?事務所は?スタッフは?学生募集の宣伝は?給与は?人物と資金の必要。どうする?「金品のため、伝道者は、頭を下げない!」「経済的自立の神学校を!」これを掲げた私たちは、しかし、運営する人材が出てこない以上、いやおうにも、学校設立と経営に手を染めないわけには行かなくなりました。そこで摂理的に、以下の5点を確認することになりました。

(1)神学校は不動産を持たない。すべて借り物で行く。借り事務所、借り教室。
(2)事務スタッフ以外は、有給の教師を持たない。すべて時間講師とする。
(3)中野校長と岸代表は無給奉仕。経済的に自活し、巡回伝道により宣伝と学生募集に貢献する。担当する講義の謝儀は、時間講師と同じ。
(4)当分、必要経費は持ち出し。運営が成功したら持ち出し分だけは返してもらう。
(5)財政的に言えば、通信制の学生募集に、神学校存続の命運がかかっている。

 新しい神学校のヴィジョンに心を動かされた同志の一人に、クリスチャン新聞の守部喜雅氏がいました。さっそく、守部氏は新聞の一面に、大きな期待を込めて、この働きを記事にして紹介して下さいました。
 私たちも、小さなニュースレターを印刷して、関係者に郵送しました。

 そんなある日、香港から電話がありました。
「私は、クリスチャンの実業家です。あなたが始めようとする神学校のニュースレターを読みました。献金をしたいと思います。学校を開始するために必要な額を、全部献金しますから、その額を教えて下さい。間もなく日本へ行きますから、帝国ホテルで、その金額をお渡ししましょう。」
 ぼくの信仰生活には、いわゆる奇跡的なことがほとんどありません。「信仰だけで生きよ。」と言われているかのようです。しかし、この時ばかりは。奇跡が起こりました。
 手を打ちたたき、舞い踊りながら、私たちは、正確に、必要な経費を算出しました。そしてやがて「300万円」が、帝国ホテルのロビーのテーブルの上に置かれました。
 「どうぞ、確認下さい。」
 「多額の献金をいただいたからといって、私たちには何一つお返しは出来ません。キリストの教えに『あなたがたは右手のしたことを、左手に知られないようにせよ。』とあります。将来、理事としてお迎えするとか、名前を刻むとか、何もありません。ただただ、いただくだけですが、それでよろしいのでしょうか。」
 「もちろんです。私は、献金の申し出が受け入れられた後、事務所を出て、香港のビルの間を歩いて帰宅しながら、感謝で胸はいっぱいになり、泣けてきました。新しい神学校の設立に協力が許されて、献金ができる。クリスチャンビジネスマンとして、こんなにうれしいことはありません。」 

 奇跡が起こったのです。「これは、まさしく主のお働きだ!真の代表は主だ、真の校長は主だ、私たちは奉仕者だ!Jesus To Japan宣教学院は必ず躍進する!」 

学生のためにこそ、学校はある。

 巡回伝道者の手元に、お金など余っているはずはありません。かつて青年宣教大会を始めた時、会場の手付け金を捻出するため、それまで可愛がっていたお話上手のオウムを知り合いの、そのまた知り合いのビジネスマンに、30万円で買ってもらったことがありました。涙ながらにオウムと別れ、封筒に入れた30万の現金を内ポケットにしまい込みましたが、大金・現金で足が震え、誰かにつけねらわれているのではないかと、右手で上着を上から押さえながら、最大級の警戒心で、姫路から小田原まで帰ってきたことがありました。怪しまれないよう平静を装いながら、何度も手で触って内ポケットにあることを確認したものでした。伝道者の金銭感覚とは、そのようなもの。突如、香港から降って湧いた300万円。世界長者番付ベスト10に入ったような気分でした。

   さて、振り返って天下分け目とも言える最大の選択と決定を下す時を迎えていました。それは、通信制のビデオの値段を決めることでした。献金を外部にお願いしないで、独立独歩、自立自給の神学校を建て上げていくのですから、経営のすべては学生からいただく受講料にかかってきます。
 友人の経営コンサルタントたちはそれぞれに、ビデオ1本を8,000円前後にするという提案でした。これで行くなら、無理のない経営ができるだろうということでした。
 私たちは迷いました。もし1年間に、学生一人あたり約100本と計算すると、80万円の受講料です。卒業までに支払う額は2年で160万です。高すぎます。これでは入学者が限られてしまいます。これでは学校経営のための学生、ということになりかねません。

 私たちは、1本3,000円を提案しました。年間受講料30万円。これなら、だれでも入学できる線ではなかろうか。ダビング(複製)は業者に出さないで、良い機械を購入して自分たちでやることにしよう。
 「安かろう・悪かろう」で、無理に無理を重ねる仕事は続かないし、学生に見捨てられることになる。「安いが良い製品・良いサービス」これで行けば、経営は成功できる。結論を出しました。「安かろう、良かろう」で勝負しよう。ビデオ1本を3,000円で。その時、私たちは以下を確認しました。 

1)この神学校は、宣教機関であって、営利機関ではない。
2)宣教機関であるなら、信仰によって立ち、信仰によって運営する、フェイス・ミッション[Faith Mission]である。
3)宣教機関ではあるが、献金による経営はしない。学生の受講料で経済的に自立する神学校とする。
4)そのためには、学生の募集がもっとも重要となる。学生が大好きになってくれるような神学校を作らなければならない。
5)神学校のために学生があるのではなく、学生のためにこそ学校はある。学生の便を第一とする神学校にしなければならない。最高の学習サービスを。
6)事務局のスタッフには、一般並みの給与を出すことが大切である。それによって、良い仕事をしてもらうことができる。宣教団体にありがちな、仕事半分・奉仕半分にしてはならない。

 入学者は、40歳以上の中年層が大半ではないかと予想しました。主婦の割合も高いと予想しました。
1)牧師志願コースを、2年課程としよう。通信制での3年は続かないかもしれない。 
2)カリキュラム(時間表)に工夫と改革を加えよう。[神学校3年]この常識と固定観念を打ち破るのだ。今の時代、卒業の後も学びを続ける手段が多種多様にある。専門書しか手段のなかった昔の時代が定めた「3年」に捕まる必要はない。本当に重要なことだけを2年間で。
3)聖書語学は選択にする。語学ができなくても、聖書理解は十分にできる時代だ。
4)重要なのは、知識の量ではなく、知識の質である。福音総合理解をこそ。
5)ありとあらゆる教団・教派からの学生を迎えることになるのだから、特定のタイプにはめ込まない。教会奉仕者に向けての具体的指導は、所属教会の牧師にお願いする。神学校は、学習サービスに徹する。

 次の課題は、教室でした。あれこれと探し回った末、すべて断られ、結局は最善の場所、新宿・早稲田の「早稲田奉仕園」の教室を時間借りすることになりました。月曜日から金曜日まで。夜6時から9時。100人は座れる、本格的な教室でした。通学生100名を目標に考えていましたから、第一関門クリアでした。これに合わせて、すぐ近くに、小さめのワンルームアパートを見つけて、事務所としました。事務所から教室までは歩いて2分の至近距離でした。

 ところで「早稲田奉仕園」は、その昔、早稲田大学を創立した大隈重信が、欧米の大学の精神的支柱が「神学部」にあることを見て、早稲田大学の「神学部」的役割を期待して開設した施設でした。ぼくは摂理的なものを覚え、深く感動し、「都の西北」に並ぶ校歌を書く事を決心しました。 

「都の西北」に並ぶ校歌をJTJ宣教神学校の校歌は、早稲田大学の校歌「都の西北」に並ぶ名曲でなければならない。そんな情熱がフツフツと心に湧いてきました。「都の西北」には、一種、賛美歌のような、心の琴線に触れる霊的なものがありま す。そのはずで作曲者・東儀鉄笛は1907年、アメリカのある大学の校歌を下敷きに、これを作曲したと言われ ているからです。
  ひらめきを待って、建学の精神と学校が目指すところを歌詞としてまとめました。

    Jesus To Japan この国 愛する 主イエス・キリスト
    Jesus To Japan この国 救いに やって来た
    傷ついた  両手を広げ  あわれみ  涙を流す
    壊された  病める心に  手を差し伸べる
    このキリストの愛に  今  心  迫られ
    神のことばを  心に刻む
    このキリストの愛に  今  心  迫られ
    神のみわざに  生きる
    Jesus To Japan この国 用いる 主イエス・キリスト
    Jesus To Japan 世界を 救いに やって来た
    聖霊の  力と愛で喜び  勝利をつかむ
    壊された 病める世界を  見つめて進む

  作曲を、ためらわずに矢島隆行牧師(高森キリスト教会)に依頼しました。この時、まったく面識はなかったのですが、『主と』という、矢島先生作詞・作曲の賛美歌がぼくの心に深くとどまり、毎日のように口づさんでいました。その歌に、賛美歌の[新しい時代・新しい皮袋]を感じました。矢島先生は快く引き受けて下さいました。
  こうして、ぼくの書いた歌詞も、作曲に合わせて修正・洗練され、こうして[われらがJTJ宣教神学校が主に捧げる賛美歌][校歌]が生まれることになりました。
  さらに後日、ロスアンジェルスのゴスぺル・ミュージシャンである道子・ヒルによってポップなリズムに編曲され、英語訳にもなって生まれ変わりました。学生たちが手にしてきたCDの誕生がそれです。

   震われて土台固まる開校に向けて着々と準備は進み、まさに順風満帆と見えたところで、マグニチュード7の激震に見舞われました。なんと、大川従道先生が、先生が仕えておられる教会の中に、超教派の神学校を大々的に始めることを発表されたのでした。教室生100人の構想は一気に崩れました。「早稲田奉仕園に借りた大教室はどうなるのか?」足下が崩れていくような衝撃を受けました。
 「鼻から息の出入りする者を頼ってはいけない。」「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのだ。」「JTJは、わたしが始める神学校である。ガタガタするな。真の校長は、このわたしである。真の代表は、このわたしである。心配無用。」大川先生が始める神学校も確かに必要。そっちもこっちも必要。確信を取り戻すのに、時間がかからなかったのは、主のあわれみでした。

遠回しの反対も信頼する二人の実業家から、電話で質問と忠告が入りました。
 「日本には、これだけたくさんの神学校、聖書学校があるのに、いまさら、どうしてまた、もうひとつの神学校なのですか?」
 「神学校を始めるということは、社会的責任、教会的責任がかかってくることです。準備に10年をかけるくらいの慎重さが必要ではないのですか?」
  ていねいに説明をさせていただきましたが、内心、揺さぶられるものを覚えないわけにはいきませんでした。人を当てにするな。主をのみ頼れ。これは主の戦いだ。
  牧師と名のる人からも、匿名で電話が入りました。
 「あなたが立ち上げようとしている神学校で、1%の壁が打ち破られるなど、考えが甘いですよ。そんなことで、日本のリバイバルなど起こるわけがありません、、、、」

  ヴィジョンを確認する開校は、1990年4月。準備期間は10か月。神学校の新しい皮袋を創造する。
  律法主義、伝統主義を打ち破る、福音総合理解の眼を持つ指導者の養成。宣教の新しい皮袋を創造できる指 導者の養成。リバイバルを起こすための神学校ではない。リバイバルをあてにしないで1%を打破することを目指す神学校だ。
  リバイバルに向けて用いられる人たちがいる。リバイバルの中で用いられる人たちもいる。JTJはリバイバルの後、用いられる人たちの養成だ。否、リバイバルが来なくても動かされない指導者たちの養成こそ、JTJの目指すところだ。
 あらためて、これらを確認しました。
 それから3年後、日本経済のバブルがはじけました。
 顧みて思うことは、「開校のチャンスは、1990年4月だった」ということです。


~ 準備から波乱の幕開けへ ~

極寒の箱根山頂・暗闇の珍事
 いよいよ開校にむけて、最後の準備段階にはいりました。
 講義の一覧表、時間割、講師一覧、学校案内などなどを携えて、後藤牧人、中野、岸の3人で、箱根に一泊、最終の打ち合せを行うことにしました。
 友だちに頼んで、箱根でいちばん安い宿を紹介してもらいました。箱根元町からさらに20分ほど入り込んだ寂しいところに、それはそれは古びた旅館がありました。かつては、なかなかの格式のある宿であったろうと思わせるたたずまいでした。
 寒~い8畳の部屋へ通されました。重厚で立派な床の間。かびが生えていそうなふすまに囲まれた、それはかつて最高の客間であったに違いない風格がしのばれました。ただ、時代は移り変わって、来客とだえて久しく、人けの感じられない湿った空気でした。
 旧式の丸い石油ストーブが部屋の真ん中に置いてあり、身を寄せて囲めば何とか温もるのかな、という感じでポツンと寂しげでした。
 さて、おかみさん一人愛想よく、夕食を運んできて、明るくサービスに努めてくれました。とにもかくにも、3人の来たこと自体が嬉しくてたまらない様子で、一人でしゃべりまくって、箸を動かす私たちを見ていました。
 ところが、食事の片づけも終わり、そろそろ話し合いに移ろうとしても、おばさんが座り込んだままで、立とうとしないのです。「お酒を飲まないのに、酔っ払ったように皆さんご機嫌ですねぇ。」「どんなお仕事をしてらっしゃるのですか?」「かつては文壇や、経済界の偉いさんたちもおいでになりましたよ。」とか、とにかく私たちを話に引き込んで、一緒にいたいという心がミエミエでした。これには、私たちは弱りました。
 困ったことは、まだ序の口でした。

 お手洗いは、氷点下に冷え込んだ真っ暗な長い廊下を歩いて、屋敷の端にありました。 常夏のハワイから来たばかりの中野雄一郎先生は、打ち震えるロボットのようにして、お手洗いへまではたどり着いたのですが、寒さで尿道が収縮して、おしっこがさっぱり出なくなったではありませんか。そこで、真っ暗な山道を運転して、ふもとの芦ノ湖プリンスホテルに駆け込みました。夜半のおしっこにも閉口しました。あの廊下が怖くて、ぼくは、庭に面した窓をそっと開けて、放尿を果たしました。瞬間、凍てつく寒さで、わが息子は縮み上がり、小水はつらら状となって腰板にへばりつき、ヒトパピローマウィルスは絶滅しました。ギンギンの寒波が一気に部屋に入り込み、みなさんびっくりして目を覚まし、すべて暗やみの珍事はバレてしまいました。中野先生の終末処理器官が冷凍性閉そく症状を呈したため、朝には先生を車に乗せ、ふたたび芦ノ湖プリンスへ走ったことは言うに及びません。
 与えられた300万円に浮かれないで、細かく、引き締めて準備を進めました。

動揺・不安いっぱいの入試・開校
 教室通学の牧師志願科の入学試験をしました。2000年3月18日(日)、その日は会場を予定した早稲田奉仕園が休館のため、近くのそば屋さんの二階を借り切ることにしました。その昔、クラスコンパといえば、そば屋の二階でしたから、その要領で相談しました。6人の学生が集まりました。まずおそばを1杯食べて、それから筆記試験ということでした。

問題1 聖書66巻の書名を順番に書いて下さい。

問題2 将来、どのような牧師になりたいですか。

[受験生6人。どうしよう。まさか、たったの6人とは、、、、。]

    4月9日(月)教室生のオリエンテーション・入学式を行いました。忘れもしません。
集まったのは、我々内部の関係者、ぼくの家内も数え聴講生を含めて、15人でした。
 ものすごい戦いが心に押し寄せてきました。[これでは、開校の時点で、もうすでに、つぶれているのでは。]ぼくは内心、泣いていました。と同時に、すさまじい闘争心がムラムラ・メラメラと心のうちに燃え上がって来たのを覚えています。
 [おんどりゃ、きさん、こねんことで、きさん、負ける訳がなかろおがなぁ。]
[わしゃあ、絶対に負けん。勝つ、勝つ、勝つ、勝ちゃるでえ。きさん、みゅうれえよ。]

   「見ると、柴は火に燃えているのに、その柴はなくならなかった。」(出エジプト3:2) モーセの生涯から、神の山ホレブにおける、召命と派遣の出来事をテキストにして、説教を語りました。その時、モーセは80歳。
 一握りの柴のような無価値で、無力なモーセ。しかし、聖霊の火が燃やして下さるときに、火は消えることなく、柴は燃えつきない。
 JTJ宣教学院(当時の名称)も柴、私たちも同じ柴。この激励のメッセージをもって、それこそものすごい闘争心で、14人を前にして、力み返って説教しました。

   1990年4月22日(日)夕方に予定していた[開校式]に向けて、天のお父さまは、全国各地 に、通信で学ぼうとする人たちを、どっさり、どっさりと用意しておられたのでしたが、私たちにはその時点ではまったく見えていないことでした。ほんとうに信仰が練り試されました。 

歓喜の開校式

 早稲田奉仕園の教室を、6時30分から9時まで、時間借りすることで、100人教室を確保しました。すぐ並びのマンションの一階に一室が空いていました。絶好の位置関係にありました。急げば3分で録音機材をはじめ、講師用の椅子、受付の机など、必要な物品を運び込むことができます。即、契約をして早稲田事務所が整いました。

古家具・古道具屋巡り

 講義を録画するカメラは、性能の良いソニーのホームビデオカメラにしました。カセットテープの録音機と、一度に10本のテープの複製ができる「マザー」という機器、この2点だけは新品購入としました。あとは、机も、椅子も、電気スタンドも、ワープロも、本棚、ついたて、かさ立て、ロッカー、ハンガー、カーテン、カーペットなどなど、とにかく何もかもすべて、当時はまだ少なかった中古販売店(今のリサイクル店)を回り、調達に努めました。小田原、平塚、伊勢原、新宿区、中野区など、必要に応じて捜し歩いては、めぼしいものを調達しました。学んだことがいくつかありました。

  1. 多くの中古道具・中古家具店には、「いらっしゃいませ」の挨拶がない。
  2. 入ってくる客には、ほとんどだれも注意を払わない。
  3. 商品は、ほこりをかぶっているものが多い。きれいに拭いて渡さない。
  4. 時間通りに開店しない。
  5. 車まで家具を運ぶ手伝いをしても、「悪いねぇ。ありがとう。」がない。
  6. 家具は中古、客も中古、経営者も中古、どこか三流意識?のようなものが支配的であるようだ。(以上は、 今の「リサイクル店」のことではありません。)

 わがJesus To Japan宣教神学校や関係諸教会は、こうなってはいけないと自分に言い聞かせました。 

いよいよ最初の授業開始へ

 事務機材を積んで、事務所と教室を往復するために、農家の人々が愛用したリヤカー(rear car・引っ張る人の後ろにある車の意味)を捜すことにしました。結局は、新品を買う以外ないことになりました。中古のリヤカーが見つからなかったのです。やっとのことで、新品を小田原で手に入れることが出来ました。軽トラックをレンタカーして早稲田の事務所に運びました。ところが、試運転をするうちに、近道になる事務所から教室までの通路が狭いため、一般のリヤカーでは車幅がわずかに広過ぎて、通れないことがわかりました。鉄製のリヤカーを近所の鉄工所に運び、左右対称に真ん中からまっ二つに切断し、それぞれの幅を数センチづつ詰めて、それをふたたび合わせて溶接づけしてもらうことにしました。こうして、最初の授業のための最終準備が完了したのでした。
 わずかな教室生たちは、一人一人が宝石のように見えました。そして、だれもが一期生として期待と誇りに輝いていました。特別に、二人の学生から大激励を受けました。
 一人は、沖縄からやって来た、田畑凡男(つねお)君でした。近所に下宿しました。
 もう一人は、北九州からやって来た、京子さんでした。カウンセリングコースに入学しました。JTJが全国に広がる手ごたえをつかんだ感じでした。
 大教室に、15人前後の学生がゆとりを持って席につきました。下町の風情というよりも、田園調布か、ビバリーヒルズ的な、となりは何をするものぞ、ぜいたくな空間が学生と学生、学生と講師との間にありました。初代の事務長を務めて下さった鈴木邦俊先生の牧師宅を開放して頂き、鈴木先生が一人で、教室制と通信制の入学手続きの事務、テープとビデオの複製と発送などの実務に取り組み、その上、月曜日から金曜日まで、夜は毎日5時半までに、町田から1時間30分をかけて早稲田事務所に来て、9時まで録画をするという、教会の牧会事務を優先しつつも目一杯の強行日程をこなして下さいました。


失望から希望へ、超満員の〔開校式〕

 オリエンテーションから最初の授業が教室で始まって2週間後、4月22日(日)夕方に予定していた〔開校式〕は、あいにくの雨模様となりました。ところが、開会予定の4時の1時間も前から、次から次へと人々が現れたのでした。日曜日の午後のことですから、牧師関係の知人友人はまばらで、わが人生においては、新しく出会う人たちが、それこそどんどん、どんどん現れて、やがて気づけば、100人教室は満杯で、150人近い人、人、人で、会場は埋めつくされたのでした。私たち関係者は、あっけにとられるというより、信じられない目の前の光景に感極まり、「主よ。主よ。主よ。」「やった、やった、やった」とほぼ興奮状態で、ただ主をあがめるのみでした。遠くは名古屋、静岡からも通信の学生たちが駆けつけてきてくれたのでした。
 定刻になって、ハプニングが起こりました。
 ホームビデオカメラが作動しないのです。記録に残さなければならない、貴重な開校式。しかも、わがJTJの最大のセールスポイント〔ビデオによる通信制〕が泣き出し、笑い飛ばされるような、困ったハプニングです。なぜ作動しなくなったのか。原因は雨でした。湿気が高く、満場の熱気で、カメラのレンズが曇ってしまったのです。最安のカメラでしたが、そこはメイド・イン・ジャパン。優秀緻密で、レンズが曇れば自動的に作動しないのです。
 とにかく、開会時間を延ばして、レンズが熱気になれて、晴れてくるのを待つほかはありませんでした。10分ほどの遅れとなったのでした。
 こうして、少人数の教室生・日本と世界に広がる数え切れない通信生とによる新しい皮袋としての神学校がスタートしたのです。イエス・キリストが日本に立たれ、ご自身の宣教のため、JTJ宣教神学校を開始されたのです。 

創立期の情熱

  それこそ、雨の日も風の日も、教室生たちは笑顔と熱い心で、良く協力してくれました。毎日、夕方5時、6時前には事務所にやって来て、リヤカーに所定の品々を積み込み、教室へ運ぶ手伝いをしてくれました。授業が終わると、同じ作業を、もっと大勢でやってくれました。貧しく、小さく、少々つっぱった神学校の出発でしたが、その心は というと、やがて日本の教会と宣教とに、大きな影響力を持つ日本最大の神学校になるのだという、フツフツとたぎるような情熱が一人一人のうちにありました。ぼくが担当する講義の直前に、そのころは、必ず「校歌・わがJTJが主に捧げる賛美歌『ジーザ ス・トゥ・ジャパン』」を歌ったものですが、歌いながら感極まって声が出なくなったのは、ぼく一人ではなかったはずです。 


数々の反響が

  うれしい反響が、通信生たちから続々と入ってきました。

  1. あきらめていた、長年の夢が、今実現しました。ビデオで神学校の学びをしながら、まるで夢を見ているようです。この神学校は、神様が、私のために始めて下さったものだと感謝しています。このようなメッセージが、いくつ届いたか知れません。
  2. 突然、学校事務所に、200万円が振り込まれてきました。献金です。「私が学んでいるビデオを、主人が後ろで見て、大感激。『このような神学校は、どんどん発展しなければならない。神学校を助けたい。』と言って、献金するのだ、と言い出しました。お受け下さい。」
  3. ある通信生が、学校を訪ねてきました。写りの悪いビデオに対する抗議・苦言ではなかろうかと、内心ヒヤヒヤしながら対応しました。「ここに70万円の献金をお持ちしました。『使徒の働き』の講義を受けて、安息日のこと、地域の宗教儀礼的な行事のこと、墓参りや焼香への対応のことなど目からうろこの体験でした。このような講義を、日本中の牧師先生に見てもらいたいと思いました。退職金の一部ですが、そのために使ってください。」このような多額の献金は、学校創立期に限られた特徴でした。主ご自身が必要に応じて、学生とその周辺の方々に感動をお与えになったのです。

 これらのうれしい反響に加えて、入学の問い合わせは連日あいつぎ、全国津々浦々か ら通信制への入学生が300人、400人と与えられたのでした。
1年前、守部喜雅氏の好意によって、クリスチャン新聞の一面に、聖書66書全部を 学べる、JTJ宣教神学校が開校されることになるニュースが大々的に掲載されました。その数週後から、私たちにはジワジワとプレッシャーが押し寄せてきました。果たして、どれほどの学生が実際に入学してくるのか、と。しかし、そのとき、信仰の戦いは確か にひとまず決着し、勝利を得たのでした。
 献金を訴えない、学生の受講料だけで経済的に自立・自給する神学校。おそらく世界で前例のない、新しい皮袋としての神学校。
この理想は、現実のこととなる!!!確かな手ごたえをつかんだ開校直後の数ヶ月でした。

 教室と事務所を一つに

  町田事務所と、教室事務所と、教室を一か所にまとめなければ、とても対応仕切れない状況になるのに、時間はかかりませんでした。そこで、新しい教室さがしを開始したのでした。

  • ビルの中に50坪のフロアーを借りる。
  • 教室と事務所を仕切る。
  • 家賃は、月60万円まで。(与えられた入学者の数から計算して、支払い可能な条件)
  • 電車の駅から歩いて10分以内。

 高田馬場駅のそばの山手線のガードレールの脇に小さな不動産屋さんがありました。
 社長がとても親切な心を持つ人で、牧師を養成する神学校に興味を示し、あれこれと物件を捜し出しては紹介してくれました。そうして、ほどなく、新宿区下落合のマンションの半地下に、50坪の物件が出ました。太陽の光が入ってくる半地下。巨大な柱が真ん中に2本立っていましたが、教室と事務所を仕切るには邪魔にならないもの。高田馬 場駅から15分、東中野駅から10分、地下鉄駅からは3分。大家さんとの話し合いも順調で、賛美歌を歌っても支障なし、ということで契約することになりました。 

自前の教室と事務所!?

 時間借りの教室で開校して2年もたたないで、50坪のビルのフロアーを借りて、教室と事務所とを一か所にまとめることができる。夢のようなことが実現しました。
 しかも、特定の個人や、教会や、団体から応援してもらわないで、JTJ独自の資金でこれができたことは、特筆すべきことでした。
 ホームビデオカメラをやめて、専門家が使う正式のカメラも中古品でしたが100万円弱で購入できました。今回も、必要なあらゆる備品と調度品はすべてリサイクルで調達しました。中野区や新宿区の地元の教会からも、入学者や聴講生が加わってきました。

痛みを伴う人事も

   私たちも、事務局のスタッフたちも、学校運営の経験はゼロでした。実は、学校経営の怖さを何も知らない私たちだったからこそ、10か月に満たない準備期間で、開校に踏み切ることができたのでした。もし私たちに少しでも専門学校の実務や経営の知識があったら、あのような形で大胆に開校に踏み切ることはできなかったでしょう。
 それに加えて、私たちの学校が一般的な専門学校、養成学校でもなく、牧師を育てるキリスト教界の中の事業であったことにも助けられました。
 「明確なビジョンと献身の決意の表明」「宣教の働き」「営利を目的としない、犠牲を覚悟の事業」「神のみこころ」「信仰」。そして学生たちの信仰と愛の理解。これらのゆえにこそ、現実が先、準備/装備が後ということが許されたのでした。
 ところで、400人、500人という、一気に増えてくる通信生をはじめ、教室生にたいして、過不足なく対応していくには、事務・実務の確立こそが急務となりました。したがって、仲間内に一時的な応援や奉仕をお願いするとか、パートで働いて頂くとかではもはや間に合わない状況になりました。学校の事務実務の全体を把握し、仕事のマニュアルを作成して、事務局を指導できるフルタイムの専門家たちが必要になりました。

 ここで私たちが白羽の矢を立てたのが、恩田みどり初代事務長でした。彼女こそ、17年のJTJの歴史における、最大の功労者です。
 事務/経理/教務/実務。必要に追われ、後から追いかけて処理する状況にあって、学籍管理、会計処理、成績管理、シラバスの準備、通信の学生への講義ビデオの制作と発送、広報活動、スタッフ指導、教室生の指導などなど、事務局の現場にあって、恩田事務長は一つ一つの仕事のマニュアルを作成し、その実施に当たり、情熱的、献身的に素早い立ち上げを実現してくれたのでした。
 特に大変であったのは、入学者は多かったのですが急激な増加であったため、即座の事務的対応がかなわず、そのため、諸費用の納入に遅れが出ていたことでした。恩田事務長は昼となく夜となく、一人一人に電話をかけて、優しく、時には厳しく、学費の納入をお願いするという、誰もやりたくない仕事に取り組んで下さいました。そのため「取税人」呼ばわりされるようなこともあったのでした。


自立自給の基礎がため

 500人近い学生が入学していて、さらに日々入学してくる現実があるのですが、設備は貧弱、その上、事務局の受け入れ態勢が後手に回っている。こういう重い、大きな荷物を積んだ自転車のハンドルを突如握らされて、倒さないで進めなければならない、いわゆる自転車操業。よくぞ、彼女がこれを引き受け、整え、軌道に乗せてくれたものです。彼女こそ、いわゆる一つの「ザ・功労者」でした。  こうして開校から4年、JTJ宣教神学校は、一度の赤字も出さないで、神学校としては世界のキリスト教界でも例を見ない、経済的に自給自足の体制を固めたのです。何度思い返しても、これは奇跡というほかありません。
 教会指導者の3大誘惑。異性/金銭/傲慢・自慢。
 毎日、金銭の収支がある神学校にあって、金銭が絶対に誘惑にならないように、中野先生も、後藤先生、ぼくも、学校のお金は事務長と公認会計士にゆだね、「見ない・触れない・もらわない」という大原則を立てました。もらわないというのは、担当する講義の講師料だけを受けて、給与をもらわないということです。この原則は、私たちがJTJにかかわるかぎり続けることを決めたのでした。


生涯学習部開講

 確かに、神学校創立期においては、人知を越えた奇跡的なこと、天のお父さまの特別の介入と助けが、次から次へと起こりました。不思議としか言いようのないことに、どれだけ救われ助けられたか知れません。しかし、決して順風満帆ということではなかったのです。

 地下53坪に引っ越し、自前の教室を与えられたので、夜の神学部の授業だけではもったいない、昼間の活用を考えよう、ということになりました。そこで「女性のための生涯学習部」を開設することにしました。多角経営が足を引っ張り、本業が傾く話はよく見聞きしていました。その新しい事業がマイナスになることがないかどうか、不安もありました。●神学部だけで十分ではないか。●神学部の充実に全てをかけたらどうか。●神学部の学生募集に陰りが出てきたらどうするのか。そのためには、底辺を広げていくことも必要ではないか。●生涯学習部の修了生が、神学部に進んでくれないか。


 あれこれ検討の結果、生涯学習部を踏み出すことにしました。ところが、学生の募集状況がかんばしくありません。

 神さま、イエスさま、聖霊さま、守部様

  心強い協力者であり理解者であった、クリスチャン新聞 の編集長・守部喜雅氏へ送った、恥も外聞もない手紙も残っています。

敬愛する守部様

 いつもお世話になっています。
 緊急のお願いがあります。
 4月から開校する、JTJ宣教学院「女性のための生涯学習校」を何とか記事にして、紹介して頂きたいのです。この前は、神学校特集の中で紹介して頂きましたが、「記事」にして頂きたいのです。
 確かに、JTJ宣教学院は、一番危機的な一山は越えることができました。
 今、もう一つの大きな山を前にしています。かならず、主ご自身が、これを越えさせて下さることに間違いありません。しかし、それは、クリスチャン新聞の協力を頂いてのこと、それは去年の山のときと同じです。
 バックも保証もないJTJ宣教学院。
 信仰と献身だけのJTJ宣教学院。
 今日の、弱い立場にある信徒の必要に答えつつ、日本宣教の根源的な課題に答えようとするJTJ宣教学院。
 この間の事情を一番熟知していてくれるのは、守部さんをおいてありません。

 守部さん、もう一山を越えさせて下さい。
 この山を越えれば、学校として自立のペースに乗れるのです。取材に応じるためには、いつでも・どこへでも、出かけますから、宜しくお願い致します。

守部さん、もう一山を越えさせて下さい。
守部さん、もう一山を越えさせて下さい。
守部さん、もう一山を越えさせて下さい。
守部さん、もう一山を越えさせて下さい。
守部さん、もう一山を越えさせて下さい。
守部さん、もう一山を越えさせて下さい。
守部さん、もう一山を越えさせて下さい。
守部さん、もう一山を越えさせて下さい。

1991.2.30  STG500担当 岸義紘
当時の記録には、次のようなものがありました。

SOS緊急のお願い

主のみ名をあがめます。
春めいてきました。
お元気でご活躍のことと存じます。

さてさて、緊急のお願いがあります。
女性のための生涯学習校』は、4月8日から開講の予定ですが、どうしたことか、3月15日 現在、「教室学習部」には6名しか入学者がありません。こんなに 魅力的で、ニーズに応える、しかも高い受講料を、大胆に安くしての講座ですから、この愚かなまでの使命感と情熱に対して、 人々が応えてくださらないなずがない、というのが今日も変わらない私たちの確信です。しかし日一日と開講日が近 づくにつれて、「まさか、まさか」で不安にもなってきました。
■新宿・落合の教室に通っていただけそうな、だれかにお勧めください。見学・聴講は無料です。

  ● カウンセリングコース  月 朝10:00-12:25
  ● ファミリライフコース  水 朝10:00-12:25
  ● バイブルスタディコース 金 朝10:00-12:25

もう一山 もう一山の つづきかな
                               1991.3.17
お申し込み・お問い合わせ JTJ宣教学院
TEL:03-5386-5377(朝9時~夜9時)(※当時の電話番号) 

 1990年4月に開校して、1学期を終えた時点の夏休み、「通信制」の学生たちに送った手紙があります。

 あなたがたの中に働きかけて、その志を起こさせ、それを現実に至らせるのは神であって、それは神の喜ばれるところである。すべてのことをつぶやかず、疑わないで行いなさい。
ピリピ2:13-1

主のみ名をあがめます。 

 もっと早く、あいさつと励ましの手紙を、と願いつつ、あわただしさにかまけて、のびのびになってしまいました。 
 7月20日、『教室学習部』では、1学期の授業が終了しました。やれやれ、という気持ちとともに、ビデオで学びを続けている「牧師志願コース」の皆さんに今こそ一筆を!そんな心にかられて、ワープロに向かっているという次第です。 

 どんなですか、ビデオでの授業は?講師の先生方の気迫が、そのまま伝わりますか?内容に満足していて下さいますか?プリントは役に立っていますか?ビデオの画質は、まずまずでしょうか?十分な時間が独学のために確保できますか?戦いはあると思います。ベストを尽くしてください。 

 教室の授業は、どうしても、教室中心になっていきますから、いろいろ無理もあろうと思います。が、先生方も、段々要領を得て下さると思うので、ビデオで学ぶみなさんをしっかりと配慮に入れて頂けるようになると信じます。 
 とにかく、このような授業のあり方は、私たちにとっても初めてのことなので、戸惑いも多く、 また、学校としても創立の年ということもあり、まさに「発展途上にある」ため「そのうち」「これから」の要素も多いわけです。お許しください。ご期待ください。

 なにはともあれ、皆さん一緒に、この歴史的な一歩を踏み出せたことに、ぼくは、感激しています。中野校長も同じです。皆さんのために祈っています。召された方が、かならず支え、導き、助けて、目標を完成して下さることを信じて。お会いしたいです。きっといつの日にかそれも許されるでしょう。 

  来春から、JTJに発展的変化が起ころうとしています。

  1. 女性のための「生涯学習校」を、昼間に開講します。
    メインに、3つのコースがあります。
    • カウンセリング・コース  (2年間で、216時間)
    • ファミリーライフ・コース (子育てを含めて、家庭の人間関係と、家族の伝道についてのケース・スタディーを中心に)

    • バイブル・コース (アダムからパトモスのヨハネまでを2年で学びます)
  2. 『通信学習部』の人気は、時代の要請と受け止め、『通信学習部』を基盤にした学院のあり方をしっかりと固めて行きます。もちろん『教室学習部』の充実を図りつつのことです。
  3. 事務所を、教室のある早稲田奉仕園のそばに移して、事務の一本化を計ります。スムーズに流れるまで、ちょっぴり時間がかかるかもしれませんが、ご協力頂きたいと思います。
      住所・電話・ファックスなどは、改めてお知らせします。

  学院の充実発展は、まず、十分な学生を確保することにかかっています。講師の先生方については、万全です。   学院としての自立を計るためにも、講師の先生方に十分な謝礼を出すためにも、この学院に入学して来る学生がどんどん増えることが、私たちの目標です。どうか、JTJを友達に勧めて下さい。勉強の仲間をふやして下さい。ぜひ、お願いします。 

  海外にも、分校が生まれています。事務局はハワイの中野先生の自宅です。拡大発展を祈りましょう。海外の友にもJTJを進めて下さい。 

  それでは、積極的に体を鍛えることを忘れないで、明るく、楽しく学び続けて下さい。 

  祝福を毎日祈っています。 

1990.7.23 岸 義紘 

〒160 東京都新宿区西早稲田2-3024 上田ビル101
     JTJ宣教神学院事務局 
     Tel・Fax 03-5272-4155 (当時の電話番号)
●前回の「守部様、守部様、守部様」への緊急のハガキよりも、半年ほど前の準備段階のものを掲載しました。

13年ぶりのアメリカ伝道旅行

1991年の秋、『北米ホーリネス教団』の招きをいただいて、13年ぶりに家内とともにアメリカへ行きました。
 4年の留学に区切りをつけて帰国するとき、ぼくは、一つの堅い決心をしました。「10年は国外には出ない。宣教の仕事に取り組んで、それなりの成果を上げなければ、アメリカには帰ってこない。」  そして、『北米ホーリネス教団』の招きをいただき、「ついに時が来た!」と思いました。帰国後、それなりの成果は上げられなかったものの、JTJの分校を訪ね、拡大への打診のためにもと、二つ返事で招きを受けさせて頂きました。

どこにもJTJの学びが

 4週間は、ほんとうに楽しいものでした。
 びっしりのスケジュールで、集会のない日はほとんどなく、レンタカーを運転して、カリフオルニア州にある『北米ホーリネス教団』の全教会を巡回しました。かつて、留学中に、学生牧師として、『北米ホーリネス教団』のお世話になっていたので、なつかしい方々が、どこへ行っても大歓迎して下さいました。1世のお年寄りの中には、この13年の間に、すでに天に召された方々もおられましたが、ほとんどの方々は、お元気でした。そして、何よりもうれしかったことは、行く先々で、すでにJTJの学びが始まっていたことでした。これは、中野雄一郎学長ご夫妻が、銀婚式を記念して、JTJ宣伝の旅をして下さった賜物でした。

 以下に、JTJに関係する事柄をレポートいたします。

 パサデナに「なかよしクラブ」という「家の教会」がありました。林さんという、中国人の方の大豪邸で(たしか2000~3000坪の敷地で、テニスコートとプールが裏庭にありました)、まるでホワイトハウスのようでした。40~50人の中国系の方々と日系の方々が集まり、林さんの通訳で、伝道集会がありました。
 この「家の教会」のなかに、わがJTJの分校があるのです。ほとんどが中国系の方々ですが、日本語の分かる方が多く、皆さん大変喜んで学んでいて下さるとのことでした。
 カリフォルニアの最南端、メキシコ国境沿いにあるサンディエゴ・ホーリネス教会は、大川道夫先生が牧師を勤めておられます。もっとも親しい先生の一人で、「みっちゃん・みっちゃん」と呼んで、4日間の楽しい交わりを頂きました。その中の一晩、JTJの学生の皆さんが集まり、心のこもった晩餐会を催して下さいました。30人程の集まりだったでしょうか。ほぼ全員が女性、という華やかで、カリフオルニアの青空のように、とびっきり明るい集まりでした。「JTJ女子専門学校」と呼ばせてもらいました。まるで修学旅行並みのはしゃぎようでした。みっちゃんの弾くピアノにあわせて、一人1曲・1節だけ、たっぷり聖歌を歌いました。「JTJ」のネームが入った、ブルーのTシャツをおみやげにいただきました。

中野雄一郎ご夫妻の労苦の実

 北に上がって、シリコンバレーのまっただなかにある、サンタクララ・ホーリネス教会は、吹上信一先生が牧師を勤めておられました。100人を越える会衆が礼拝に集まられました。その午後、JTJの学びをしている方々が中心になって、質疑応答のときを持ちました。なぜか、爆笑に継ぐ爆笑で、「信ちゃんご夫妻」の温かな人柄がよく浸透した、すてきな人々でした。

「仕事の疲れで、夜、集まって勉強するのはきついです。居眠りをしてしまいます。テープのコピーを許可してください。家で元気なとき、勉強します。」

「わかりました。中野雄一郎先生の奥さんにお願いしておきます。」

「夫婦で勉強するとき、一人、半額の50ドルにして頂けませんか」

「わかりました。中野雄一郎先生の奥さんにお願いしておきます。」

「日本に帰った人たちが、気楽に通える教会が欲しいです。どうも日本の教会は規則が多くて、きゅうくつだから、留まれません。」

「わかりました。中野雄一郎先生の奥さんにお願いしておきます。」

 安藤秀世先生の案内で、ラスベガスにも行かせて頂きました。5人の方が集まられ、家庭集会が始まったばかりでした。この町にも3000人以上の日本人が住んでいるとのことで、教会を作りたい、という祈りが捧げられています。女性のための生涯学習プログラムを始めたい、とくにカウンセリングを体系的に学びたい、ということで、まもなく勉強が始まります。とにかく、行く先々に、すでにJTJが入っていて、「あっ、テレビの先生だ」「授業ですでにお会いしています」
 という声で迎えられるには、正直びっくりして、うれしくなりました。ホーリネス教会だけではありません。いろいろな教団の教会で、そしてグループで、いま(1991年秋)、JTJが始まろうとしていました。個人でも、近所の人たちを誘って、すでに勉強を始めている方々がありました。開校から2年、ここまで敏速に働きを進めてくださった中野先生ご夫妻の労に、頭が下がる思いでした。 

ここに、1992年春に作った「JTJニュースレター」の原稿の一部があります。講師の先生たちへのお願いです。創立期の燃える情熱とヴィジョン、不安と揺らぎが見えます。
基本的には今現在とまったく同じ路線であることがわかります。

フェイス・ミッション/FAITHMISSlON/という言葉があります。
これは、宣教の働きにおいて、ただ信仰だけに立ってその活動を進める行き方を指Lています。
経済的に支えてくれる団体とか、組織とか、教団をバックに持たをいのです。
ただただ召命と使命を与えてくださった神だけに頼って、その働きを進めていくのです。

純粋を意味でのフェイス・ミッションとしての神学校は、今日ほとんどどこにもないのではないでしょうか?

JTJ宣教学院は、貴重を存在です。
というのが、JTJ宣教学院は、初めの一歩からまさにフェイス・ミッションです。
学校経営において、正直、不安との戦いです。
夜中に目が覚めて、心配で眠れなくなるような不安です。信仰と不信仰との戦いです。
学生が入ってこなければ、それでおしまいなのですから。
どうして私たちJTJが、教会・教団・団体のバックをあえて持たないかといえば、理由は明快です。 

「言いたいこと、言わなければならないことを、誰にも遠慮しないで言いたいから」
これに尽きます。福音の真理に立つ福音の総合理解を。このための学の独立です。
具体的には、1%と0.2%という、あの数字を打ち破るために、福音理解から生まれる改革的かつ刷新的を声を上げなければならない、という胸の躍るような使命感です。
改革的かつ刷新的を提案・提題については、既存の世界は不安を覚えるもの、懐疑的になるもの、心を閉ざしたくなるものです。
ぶどう酒を「新しい皮袋」に入れ直すことは、容易なことではありません。

そこで、人々はつい保守的、保身的であることにとどまりがちなのです。
そんなわけで、JTJ宣教学院に対しては、諸教会は大きを期待と共に、少なからぬ不安も抱いている、というのが偽らざる状況であろうと思います。これが、JTJの運営に不安が伴う理由です。
このような厳しさのなかにあって、3年目に入ろうとするJTJは、まさに奇跡的であるといえます。
ビデオによる通信制が、ニーズに応えるものであった、ということです。
3年目こそ、正念場です。立つも倒れるも、この一年にかかっていると思えます。
どうか、みをさん、新しい学生を紹介して下さい。入学を考えている人は、ぜひぜひ、決断Lて下さい 

信徒学習コースも多様です。
女性のための生涯学習部の各コースは、若いお母さんたちには実際的で、刺激的なプログラムです。 
講師の先生方にお願いします。信徒の方々に入学をお勧め下さい。
JTJ宣教学院の貴重な火を高く揚げ続けることに向けて、この年、みなさんの力を貸して下さい。

1992年2月2日

3つよりの糸  -後藤牧人先生の貢献

「3つよりの糸は、簡単には切れない。」(伝道の書4:12)

●ビデオテープ制作に向けて

 JTJ立ち上げから、開拓期の5年間、中野先生とぼくと、そして後藤先生の3人が、3つよりの糸となって奮闘しました。
 当時、後藤先生は60歳のほんのわずか手前で、中野先生とぼくとが40代の後半でしたから、まだまだキリスト教界では、青年と鼻たれ小僧、という感じでした。 後藤先生は、町田聖書キリスト教会に牧師として奉仕しておられました。事情があって所属していた教団を辞し、超教派での伝道活動にも長らくかかわっていた先生は、手持ちぶさたで、ウズウズ、悶々としておられたのでした。そんなで、ぼくたちの呼びかけに2つ返事で答えて下さいました。
 先生の貢献は、まず第1に、通信制の学生のために講義をビデオ化することにおいてでした。長い間、先生は放送伝道団体である「PBA」で働かれていました。そんなわけで、授業のビデオ化については、すぐにも適用/応用がききました。

 「まずは、ホームビデオカメラで十分だ。どこどこどの、なになにが、この場合最適だろう。」
 「テープについては、どこどこの、なになにが一番安い。品質もまずまずいけそうだ。」
 「発送業務についてはPBAの方式を参考にして・・・・・・。」

●学者としての活躍

 次に、先生の貢献は、聖書と宣教学を教えて下さったことでした。
 先生は、秀才で、物知り博士でした。何でも知っていて、それも半端な知識ではなく、生き字引と呼ばれるにふさわしいタイプでした。ですから、先生と話をしていると、いかに自分がなまけ者で、不勉強の無知もうまいで、情けない人間かということを、内心思わされてしまうのでした。先生は、知ってか知らずか、もちろん意識しないで、相手を深い劣等意識に突き落とすような博学の人でした。旧約聖書が専門で、どんな質問をしても、たちどころに回答を引き出せて、関連聖句の聖書箇所までも正確にスラスラなのでした。 既存の概念や常識に捕らわれない、自由な精神の持ち主でした。ですから、先生の講義は型破りで、大胆で、学生には人気がありました。

●発展の基礎を

 最後に、先生の最大の貢献は、何と言っても、3倍速で収録してある6コマのビデオテープ1本の料金設定において3,600円という、破格の低価格を実現して下さったことでした。あれやこれやを考え合わせて、1本8,000円~9,000円になりかけていたのでした。これがコンサルタントの先生たちの提示でした。 この価格の問題点は、経営的には良くても、「だれでも、いつでも、どこででも」の最初のキャッチ「だれでも」が大いに制限されてしまうことでした。この受講料では、余裕のある人しか入学できないではありませんか。年間100万近くの受講料になってしまいます。
 創立20年で、2,000人に迫る卒業生、修了生を排出できたのは、ひとえに後藤先生のお陰なのです。

 突然、一身上の事情があって、先生はJTJから身を引かれることになりました。中野先生も、ぼくも、身を引き裂かれる思いでした。ここで、兼松先生が神学部長として肩入れして下さることになりました。
 後藤先生は、現在、福島県にあるミッションスクール聖光学院高等学校の校長を務めておられます。最近、春にも夏にも、甲子園出場を決めている野球の名門校です。


創設開拓期のまとめ

 「日本のクリスチャン人口1%。礼拝出席者人口0.2%。信仰告白者4人の中で1人しか教会にとどまらない。なぜか?」課題は、伝道以上に、教会自体の刷新・改革にあります。教会が変わらなければ、リバイバルが来ても、1千万救霊があっても、ざるで水を汲むようなことにならないでしょうか。  日本にも教会成長のケースは少なくありません。しかしわずかな例外を除いて、それらは人の動きの大きい都市圏に集中し、例外なくカリスマ的指導者が中心になっています。だれでも・いつでも・どこででも、信徒たちだけで教会は成長できないものでしょうか?この原理と方策の確立が急務ではないでしょうか。

 以上のような問題意識の下に、1980年から「青年宣教大会運動」を全国的に展開して10年後、徹底を計るため、だれでも・いつでも・どこででも学ぶことができる教育機関として「JTJ宣教神学校」の設立へと導かれたのでした。

開校から5年、自立を確立  こうして、短い11か月の準備期間を経て、1990年4月、私たちは開校に踏み切りました。その後、入学者の増加とともに、教室と事務所とが一つになる必要に迫られ、開校の年、1990年の秋には、新宿上落合の地下100坪を借りる経済的見通しもつきました。 1991年4月から「女性のための生涯学習部」を発足しました。
 1992年7月から、当初からの懸案であったフルタイムの事務局長・恩田みどり先生を迎え、学校としての事務体制が整いました。
 こうして発足から5年、税理士の先生の指導の下で、専門学校と同じ立場の「みなし法人」として認められる体制も整い、税金も納め、事務スタッフのみなさんには一般の会社なみに近い給与を支払うことができる力をつけました。年ごとの入学者の数も安定し、理想として掲げた、献金をお願いしない神学校として、経済的自給・自立の安定路線が固まりました。主にある多くの方々の祈りと応援/支援により、この調子を維持し、継続すれば[順風満帆(まんぱん)]、JTJ宣教神学校の未来がしっかりと見えてきました。もちろん、中野、後藤、岸は無給奉仕、時間講師にとどまる条件で。
 開校から6年、緊張と集中の、それこそ夢中の年月でした。今、この働きは軌道に乗りました。「よくやった。よくやれた。これは私たちの戦いではない。エホバの戦いである。JTJの代表は、主ご自身である。私たちは主のしもべである。」何はともあれ、ヤレヤレと胸を撫で下ろす心境でした。

顧みて思うこと

 (経済的自立のためには、年間110名の入学者が最低必要条件です、実に不思議なことですが、20年間、このラインで推移してきました。必要が生じると入学者は増え、決して余計な増加はありません。これは主ご自身が運営されているのです。「かめの粉はつきず、つぼの油はなくならなかった。」(Ⅰ列王17:16) 入学して下さった多くの方々に、心の底からの感謝をお伝えしたいです。中途、休学や退学を余儀なくされた方々には、いつの日にか復学して、心おきなく学んで頂きたいです。卒業を目指して頂きたいです。みなさん、お一人お一人のお陰で、学校はここまで生き抜くことができました。) 

青天の霹靂(へきれき)

ここで突如、祝福の突風が吹きぬけました。金奉任氏(現・金山良雄氏)から投げこまれた、安泰の夢を破る一撃でした。「JR高田馬場駅から徒歩1分、ビルの2階の118坪を契約するから、引っ越しませんか。」という提案でした。家賃は月100万円を越えるわけですが、JTJは半額でよい、残りは金奉任氏が個人で支払いましょう、というありがたい話でした。落合の地下室とは、立地条件が月とスッポンほども違います。金奉任氏は、長い間の祈りであった「家族・親族の救いのための新しい教会開拓」(東京友愛キリスト教会・現上野の森キリスト教会)を、その教室を使って開始する示しを主からいただいていたのでした。こうして、分、不相応ですが、落合の半地下から、さんさんと陽光が差し込むビル2階へ移ることになりました。創立から5年、1994年晩秋のことでした。